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阪神高速 ショートストーリー

第3話 新公団設立の5カ月後に起工式

理事長の熱意でスピード着工

起工式のようす
鍬入れをする栗本理事長

 公団発足後まもなく開かれた役員会で、ある部長は理事長から「10月には工事に着手するように」と言われて、一瞬耳を疑った。5月1日に発足したばかりで、早くても工事着手は翌年の1月頃かと思っていたからだ。しかし、実はそれ以前に、この部長の知らないところでもっと驚く会話が交わされていた。大阪市から公団に来ていた某理事が理事長から言われたのは「6月起工式、7月着工せよ」というものだったのだ。
 理事は、着工には都市計画決定や市会・府会の決議も必要だからと説得して10月にしてもらったが、このことで理事長はずいぶん機嫌が悪かったという。理事長が行政の手続きを承知していたかどうかは定かでないが、いずれにしても、発破をかけるつもりだったのかもしれない。理事長の並々ならぬ熱意に押されて、着工への動きは速かった。建設大臣の指示を受けたのが、10月8日。難波から梅田までの工事実施計画の認可があったのが,10月16日。そして、10月29日に起工式へ、と想像を絶するスピードだった。

大阪に初めて出現した高速道路

着工前の西横堀川

 阪神高速の当初計画路線は、大阪4路線・神戸1路線の5路線(大阪池田線、大阪東大阪線、大阪守口線、大阪堺線、神戸西宮線)である。このうち、最初に着工されたのが大阪池田線で、昭和37(1962)年10月29日、土佐堀河畔に河野一郎建設大臣を迎えて起工式を挙行した。公団設立から半年も経っていなかった。新聞社も、「わずか5カ月で工事に着手」と称賛した。
 工事は、西横堀工区、堂島工区、東横堀工区、高津・難波工区の4工区に分けて進められた。当時はまだ、積算基準も施工基準もなかったが、担当職員の情熱と工夫によって、2.3キロ(土佐堀~湊町間)について工事発注を行い、工務課は監督員詰所を現地に設置した。

開通パレードのようす
(起工式から1年8ヶ月目で土佐堀~湊町間が開通)

 そして、起工式から1年8か月目の昭和39(1964)年6月28日に、土佐堀~湊町間を南行き一方通行により大阪1号線の名称で開通。次いで、同年11月12日、出入橋~土佐堀間0.8㎞も開通。この年、供用延長を3.1㎞とした。これにより、キタとミナミを直結することになり、公団は『キタとミナミをたった3分』のキャッチフレーズで利用者にアピールした。初めて開通した当時(6/28~11/11)の1日平均通行台数は約3,000台で、1日平均料金収入は約17万5,000円。通行料金は普通車50円、大型車100円だった。
 以後、1号環状線は、梅田~道頓堀間、道頓堀~湊町間と、昭和42(1967)年にかけて順次開通した。ちなみに、当初、南行き一方通行になったのは、大阪駅の方に車を下すと「混雑の激しい駅前がさらに渋滞するから」という、警察の意向だったとされている。

(2014.4.11掲載)

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