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阪神高速 ショートストーリー

第2話 高速道路網構築へゼロからの出発

阪神高速道路公団の発足

本社事務所を大阪市東区(現・中央区)
瓦町の瓦町ビルに開設

 新公団の設立が盛り込まれた昭和37(1962)年度政府予算案が閣議決定されてからの動きは実に速かった。同年3月29日に「阪神高速道路公団法」が公布、施行され、4月18日には公団設立の認可申請を行い、翌19日に認可された。
 5月1日、大阪法務局に公団の設立登記が行われ、この日、大阪市東区瓦町5丁目71番地、瓦町ビル内に「阪神高速道路公団(現・阪神高速道路株式会社)」が誕生、発足した。

初代理事長の第一声

公団設立披露パーティー
(右から4人目 栗本順三 初代理事長)

 5月1日午前10時、阪神高速道路公団会議室において辞令が交付された。
 会議室には省庁・行政機関などから参画した職員と新規に採用された女子職員など30数名が集まり、それぞれに緊張した面持ちで栗本順三初代理事長の言葉を待った。関西財界で活躍していた栗本順三(栗本鐡工所会長)氏は、財界を代表して大阪の都市問題に取り組み、大阪市の助役も経験していた。地元関西を愛する熱い心を持っていた栗本理事長の第一声は、「諸君は役人の古手ではない。お役所という最高の学府において最高の経験を積んでこられた、その道のベテランばかりである。どうか、今日までの知識と経験を最高に発揮されて、阪神高速道路公団の所期の目的達成のために、じゅうぶんのご努力をされたい」というものだった。
 日常化した交通渋滞により、大阪の市民・府民の悲鳴は日増しに大きくなっていた。高速道路の建設は、一刻の猶予もないほど切迫している。ゼロの状態から高速道路網を造り上げることが、どれほど大変なことか、前途の困難も予想していた職員たちは皆、この言葉に奮起した。栗本理事長の新公団への熱意を示すエピソードが残っている。

公団設立披露レセプション

 理事長は、人事編成で東京から公団に来る者には、「単身での腰掛け赴任では困る、家族を連れてきてほしい」と言い、阪神高速道路のために長く仕事をしてほしいと願っていて、そのために、設立初期から社宅も多く用意した。また、職員の綱紀維持にはとくに厳しく、「業者からの贈り物等は絶対に受け取るな、送りつけられた物は公団に持って来い」と指示した。公団から業者に返却するというのである。実際に、公団に業者に取りに来させ、引き取り手のないものは慈善団体に寄付した。すると、2年も経たないうちに贈答品は皆無となったのである。自宅に届いた奈良漬けの箱を公団に持って行く際に、満員の電車内でその匂いが周囲のひんしゅくを買い、汗も恥もかいたと嘆いた職員がいたという笑い話まで残っている。
 こうした初代理事長の熱意が、この日からわずか5ヵ月で工事着工という、前代未聞、驚異的なスピード展開をもたらしたのであった。

(2014.4.4掲載)

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