ホーム > 阪神高速 ショートストーリー > 50年の歩み編 > 第12話 都心の大動脈1号環状線を閉鎖!

阪神高速 ショートストーリー

第12話 都心の大動脈1号環状線を閉鎖!

前例のない高速道路の全面通行止め

南行通行止め直後の環状線

 昭和63(1988)年1月12日、午前6:00。1号環状線南行9.3km区間の入路・出路が一斉に閉鎖された。梅田入路の路下に仮設された現場事務所から、各所に待機している施工事業者に出動開始の指示が飛ぶ。同時刻、四ツ橋交通管理センターでは、総括対策本部長以下、職員50余名が緊張の面持ちで渋滞情報表示パネルを見つめていた。
 空が白み、通勤時間帯が迫ってくると、マスコミ各社のヘリコプターが環状線上空に相次いで姿を現した。大阪府警も、ヘリコプター・パトカー・白バイと警察官を総動員して交通整理と情報収集に当たり、また、市内の主要幹線道路24路線の547交差点で、環状線に入れない車が殺到する状況に備えて、信号機を調整する体制を整えた。世紀の大規模補修工事の始まりだった。

5年の準備期間を経て、ついに敢行

大規模補修工事のようす

 1号環状線は全線供用以来、既に20年を経過し、交通量の急増、重量車両の増加などで、50年代後半には著しく路面が損傷し、一車線を規制しての工事を続けていても終わりがない状況に至っていた。舗装面積の55%は打ち替えが必要で、一部の鋼製フィンガージョイントには疲労亀裂まで発見されていた。大規模補修工事の必要性はだれの目にも明らかだった。
 2車線通行止めの本格的な補修工事は、昭和48(1973)年5月に堺線で実施して以来、守口線など放射路線で経験を積んでいた。しかし、環状線は大阪都心の大動脈だ。1日40万台(当時)の車が走っている道路をストップさせた例は、日本全国どこにもなかった。庶民生活、経済活動に大きな影響を及ぼすこの大事業に踏み切るには、相当な覚悟と周到な準備が必要だった。
 阪神高速の内部で検討が始まったのが、昭和58(1983)年。昭和59(1984)年6月に大阪府警に打診。府警とはその後、工事実施までに120回もの打合わせを重ねた。昭和61(1986)年4月に、いよいよ大阪管理部内に工事対策室を設置し、調整・工事・交通・広報・沿道班の5つのプロジェクトチームを編成して、全面通行止め区間や工事期間等の立案に着手した。そして、最初の内部検討から、5年。昭和63年1月12日から18日まで、環状線南行9.3km区間を6日間ストップして、工事が始まった。次いで、同月26日から31日まで、北行6.1kmを5日間。全部で、11日間にも及ぶ大工事となった。工事の規模は、舗装が11万2,820㎡、ジョイント取替が220レーン、簡易ノージョイント化が669㎡。そのほか特殊工事として床版打替工事なども行った。

工事の必要性が認知されて大成功を収める

当時のポスター

 阪神高速と府警の渋滞予測では、通行止めにより、環状線に直結する各放射線で渋滞が続き、一般道路では普段の2~4割ほど車が増え、通勤時間帯には幹線道路はマヒ状態になると想定された。混乱を避けるには、入念な交通対策や緻密な工程表作成のほかに、広報の役割も大きい。新聞・ラジオ・TVへの情報提供、広告出稿などのほか、ポスター8千枚、チラシ250万枚、シール50万枚を作成して、全国津々浦々にまで配布。工事の2ヵ月前から一大キャンペーンを張った。ちなみに、このとき「若返り工事」というキャッチフレーズを阪神高速が初めて使った。その後、道路公団も首都高あるいは新幹線も、補修工事の際にはこの言葉を用いるようになった。

南行通行止め直後の御堂筋

 フタを開けてみると、南行区間の工事初日、阪神高速の大阪地区57ヵ所の料金所を通った車は、約24万3,000台。その前年11月の同時間帯の平日平均に比べて4割減で、日曜祝日並みだった。危惧していた渋滞も、混乱も起きなかったのである。府警の協力と連携が大きかったが、市民や事業者の間で工事の必要性が認知され、車利用が自粛されたことが予想以上の成功を収めた要因だった。
 そして、総費用14億円、動員した作業員は延べ9,400人、車両6,500台を投入したこの壮大なプロジェクトの成功が、阪神高速にもたらした最大の成果が、一職員の次の言葉に要約されている。
 「今回のように全職員が一丸となって燃え、目的達成にまい進していったケースは過去少なかったと思う。そして、この工事を通じて、市民の感情・思考・行動力などにじかに触れることができ、そこから多くのことを教えられました」。

(2014.6.13掲載)

ページトップへ戻る